カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の13件の記事

2009/02/08

検証・・・My Life-0013

「中学校編-1 素敵な中学ライフ?」

 7ヵ月ぶりの書き込み。
ちょっと間が開きすぎだねぇ。

 無事C小学校を卒業して(当たり前か?)ワクワク、ドキドキして
いざ中学校へ!
が、しかし、俺を待ち構えていたのは絶望の中学校生活だった?!
ちょっと大げさかな・・・。

 通った中学校の正門までは、我が家から徒歩約3分。
が、これは登校の時の話。下校は約5分くらいかかる。
この時間差は家から学校への道が急な坂道だからである。
検証・・・My Life0005
まだ、12才程度の俺でも帰り道を一気に我が家へ向かった時は
息切れがするほどであった(決して大げさではないんだな)。

 通っていたのはS中。今は統廃合の末、学校名も無くなっている
はず・・・。寂しい限りである。

 中学校の真向かいには「B富士」という富士山にそっくりな山が
ある。
名前からくるイメージは素敵だが、この山は砂利採石のため日々
ハッパがかけられ削り取られていた。
学校の授業中にもハッパの音は響き渡る。
この「B富士」。標高は162m(昔はもっとあったはず)。

1969年頃
(1969年頃のB富士・・・卒業アルバムより)

今では富士と言えるような雄姿の面影もなく単なる「丘」程度にま
で削り取られてしまっている。小学校、中学校の校歌にも名前が刻
まれていたのだけれどなぁ。これもまた残念で寂しい限りである。
2007年頃

(2007年のB富士・・・帰省の際に撮影)

 入学式の事はあまり憶えていないな。
1年生の頃のクラスは10クラスほどあったと思う。が、卒業アル
バムにある3年生のクラスは7クラスだから記憶違いかも知れない。
でも一クラス40人ちょっとで7クラスだから、最近の学校と比較
すると生徒数は多かったね。

 そうそう、入学式の時は初恋の子のM子はどこかなぁって捜した。
でも、小学校1~2年のイメージが脳裏に焼き付いているものだから
捜すのに随分と右往左往したね。結果としては見つけることは出来た
のだけれど、辿り着くまでに何度もすれ違っていた。
そりゃ、そうだよな。脳裏に焼き付いたM子の顔やシルエットを頼り
に捜していたのだもの。すれ違ったって判るはずもない。
で、誰かに「M子はどこ?」って聞いて教えて貰ったんだけれど
顔を見て「?!?!」。そして、さっきから何度もすれ違っていた子
だったなんてなぁ。正直、かなりのイメージダウン(T_T)。
でも、一応声はかけたな確か。
だけれどM子の方は、俺みたいにずーっと思っていたのではなかった
らしく、声をかけたらキョトンとしていた。


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2008/06/16

検証・・・My Life-0012

「小学校高学年頃-3 卒業 そして 中学へ・・・その前に」

 今月11日(水)に伯父が亡くなった。満80才、腎不全だった。
3月には伯母が、今度は北海道にいる伯父である。
13日(金)にお通夜、14日(土)に告別式であった。
お世話になった人が結構いる俺だけれど、この伯父にも随分と
可愛がられ、お世話にもなったなぁ。この伯父は俺の父親のすぐ
上のお兄さん。父とも子供の頃から今日まで仲が良かったね。

一応、我が一族であるから伯父達が建てた先祖代々のお墓に
眠って貰おうと思ってるけどね。
でも困ったことに我が一族の継承は俺で終わり。
で、この度亡くなった伯父の子供は娘3人で皆嫁に行っている
し俺が逝っちゃったら墓がどうなるのかが心配なのである。

段々と自分の側にいる人たちが亡くなって行く。淋しいけれど
俺自身の年齢を考えれば仕方がない。順番というものである。

だけれど、心残りがあるのである。一族の長男が葬儀に出られな
かったのだ。年齢を考えれば、俺が強引に引き連れでもしない限
り動けなくて出られないと解釈も出来るけれど、どうも、理由は
そればかりではないような気がする。

この伯父は3月に亡くなった伯母の旦那。
伯母の遺骨を全て「散骨する」と決めたことについて、何故なの
かをハッキリ聞いた訳ではないので断定は出来ないけれど、何か
が引っかかっていたのだと思っている。だから、弟である北海道
の伯父の葬儀に出なかったのではと・・・。
しかし、これはあくまで俺の想像。
勿論、機会があったら今更ではあるが尋ねてみようとは思ってる
けれどね。

そんなことなものだから、俺の父親は一番上の兄ではあるけれど、
「もし自分より先に逝っても兄貴の葬儀には出ない」と言い始めた。
これは困るのである。喪主になるか施主になるかは分からないけれ
ど伯父には子供がいないから、多分、伯父の葬儀を行うことになっ
たら俺はそれなりの立場で式を務めなければならないはずだもの。
その時、が来たら説得するしかないのかなぁ。

色々考えることがあり気持ちが落ち着かないので、本テーマの本来
の書き込みは次回ということにしよう。


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2008/06/01

検証・・・My Life-0011

「小学校高学年頃-3  卒業 そして 中学へ」

 3月に亡くなった伯母の49日を4月20日(日)にA市の小さな
お寺で行った。質素である。
そして、5月25日(日)にH市沖合16kmの海上で散骨した。
伯母の遺骨は粉のように砕かれ、水に溶ける紙の袋に少しずつ
入れられていた。
当日は前日からの雨の影響で白波こそ無かったがうねりが酷い。
沖合まで具合悪くならないか心配ではあったが、ほんの少しだけ
気分が良くなかったが、何とか沖合に到着。クルーザーの手すり
につかまり散骨をした。目を閉じ暫く手を合わせていたいのだが
揺れて放り出されそうだったので合掌はほんの一瞬だった。
ゴメンナサイ叔母さん。


 さて本題である。

 小学校の頃の思い出って多分沢山あるのだろうけど、思い出せ
ないなぁ。嫌な思い出は結構思い出すのだけれど、楽しい思い出
は特に思い出せない。

5年だったか6年だったかは今一つ思い出せないのだけれど、
友人Sの目の前で父親に殴られ蹴られたことは嫌な思い出の一つ
として憶えている。自宅の玄関でである。
このことがあってからSは我が家に来ることがなくなった。
「お前の親父おっかねぇなぁ」って学校で言われたけどね。
口で言っても分からなければ手を挙げるのは我が家の教育方針
であって、殴られるても仕方のないことをしたのも分かっては
いたのだけれど、さすがに友人の目の前でやられたのには恥ずか
しかったね。

そう言えば、小学校4年生だったか5年生の時に「放送部」を
やってたっけ。放送室が好きだったんだなぁ。きっと。
リール式のテープレコーダーやアンプ、そして大きめのマイク。
確か取材なんかも行ったんだろうけど憶えてない。
憶えているのは、背も大きかったが顔の長いK君。同じ放送部
だったなぁ確か。う~ん。後はさっぱり思い浮かばない。

 「中学校に行ったら英語を頑張る!」なんて小学校の卒業文集
に書いた記憶がある。しかし手元にその文集が無いので、どんな
文面で、どの辺に英語のことを書いたかは定かではないが・・・。
でも、これからの世の中英語くらい話せなければっていう思いが
あったんだと思う。が、これは中学校へ入学してほんの少しで
挫折することとなる。この辺は中学校編で触れよう。

あ、それと中学校に行ったら小2の春に我が家の引越しによって
逢うことのできなくなった初恋相手のM・Iにも逢える!
「早く逢いたい!」・・・なぁ~んて思いながらワクワクしてた。

しかし挫折と幻滅が中学校では待っていたのである・・・。


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2008/03/09

検証・・・My Life-0010

「小学校高学年頃-2  漫画を描いたり悪いコトしたり・・・」

 ひな祭りの日に伯母が亡くなった。85才である。
まだまだ生きていてほしかったのだけれどね。
伯父、伯母には子供の頃にもお世話になったのだけれど、大人に
なってからは親同然のようにお世話になった。
伯父ももう83才である。伯母がいなくなったことで急に老け込ま
なければいいと思うが心配である。

このブログの中学生の頃を書くときに多少触れるつもりだけれど
伯父、伯母は北海道で酪農を営んでいた。
今でも思い出すのは牧場に放たれた牛や羊。
厳寒の地で牧草もあまりよく育たないなかったようだけれど、夫婦
で一生懸命頑張っていたのだ。


 さて本題に戻ろう。
 自分は絵を描くのが好きだった。漫画を描くのも大好きだった。
そんな自分にぴったりの同級生がいた。5年生の頃だったと思う。
 名前はH川。目はギョロ目。髪の毛は確か天パーだったような
気がする。
H川に怪獣を描かせたら天下一品である。
そんな彼と自分は意気投合! 一緒に怪獣漫画を描き始めたので
ある。二人で一つの漫画である。ようは藤子不二雄みたいにね。
彼が怪獣キャラや背景を描き、自分は人物中心に描いていた。
描く場所はもっぱら彼の家だったと思う。
その当時描いたものはどこにいったんだろうな。H川は持ってる
のだろうか。彼と逢うことができればいいのだが・・・。

 H川と漫画を描くのも楽しかったのだが、この頃は丁度思春期
である。だから悪いことも少しはしたなぁ。
悪いことの火付け役はKだった。
Kは雑誌の通販で手に入れたエッチな写真を持っていたのである
(こんな話をしても、もう時効だよね)。
Kの持っていた写真を一緒に見たのがOである。Kはちょっと
不良ぽかったなぁ。だけどOは真面目だった。
そんな真面目だったOと自分にKは火を付けたのである(人の
せいにしてはいけないか・・・)。
ここで赤裸々には書けないのだけれど、それはそれは顔から火が
でるような写真だった。
それを、止せばいいのにKから何枚かを借りたのである。
そして家へ持って帰ったのだ。が、親に見つかっては大変。
で、「ここがいい!」と子供ながらにいい隠し場所を見つけた。
壁に小さな茶器入れが付いていて、壁がベニヤだったのでベニヤ
をちょっと押してやると上手い具合に隙間ができたのである。
そこへ「ググッ」と押し込んだのである。
しかし、グッドアイデアと思ったのもつかの間。
父親に見つかったのである。子供の浅知恵であった。
押し込んだはずの写真の縁がはみ出ていたのである。
父親はそれを見つけ「何だこれ?」と自分を睨んでいた。
「おぉ怖っ!」。
だけれど、父親はその後何も言わずにそれを捨てたのである。

Kには「親父に見つかって捨てられた」って言ったのだが
さて、Kが何と答えたかは憶えてない・・・。
[小学校最期のクラス会で]

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2007/10/14

検証・・・My Life-0009

「小学校高学年頃-1  テレビ そして ポチ」

 ブログを継続するのは大変だなぁ。
納豆の話で盛り上がったのに、もう2ヶ月も間を空けてしまった。

 戦後20年近く経った小学校高学年辺りになると貧富の差も
かなり縮まった感じで、接ぎ当ての服を着ている子供はかなり
減っていたね。
テレビの普及率も50%位だったんじゃないかなぁ。
我が家は裕福ではなかったけれどテレビは6才頃にあったね。
勿論、白黒だよ。足が4本、緞帳がついていて、うさぎ型の
室内アンテナだった。

相撲なんかは午後3時頃からやってたね。
放映局が幾つあったかは憶えてないけれど低学年のころは
「白馬童子」を見てたような記憶があるね。
「♪白馬童子がやってきた。さぁ大変だ大変だ♪」だったかな?

小学校の高学年頃から「鉄腕アトム」が始まった。当然白黒。
子供達皆がテレビにかじりついたね。
コマーシャルは・・・
「♪
マーブル、マーブル、マーブル、マーブル、マーブルチョコレート♪」
の明治製菓。売れてたね。チョコレートよりもおまけのシール!
集めたね。貼ったねランドセルやら色んなとこに。

鉄腕アトムの前は
「隠密剣士」「恐怖のミイラ」かな。
恐怖のミイラはおっかなかったね。放映後のトイレはなかなか
行けなかったし寝床についても天井のベニヤの節を見てると怖い
ものに見えて寝るに寝られなくって大変だったなぁ。

そうだ!
「少年ジェット」なんてのもありました。
「♪ 黄色いマフラーなびかせて~♪」なんて曲で、主人公は
スクーターに乗っててシェパード犬が一緒に走ってたなぁ。
あぁ、
「まぼろし探偵」ってのもありました。「七色仮面」も。
随分見てたんだなぁ。でもストーリーは殆ど憶えてないねぇ。

おぉっ!
「忍者部隊月光」もありました。
この番組の影響は大きかったね。特に男子には。
「隠密剣士」では手裏剣やマキビシを使うシーンの影響で
缶詰缶を使って手裏剣作ったりしたけれど、忍者部隊月光の
影響で向かいの山に秘密小屋を作ったり、枝で刀を作り、割り箸
でゴム鉄砲を作ったりして
「ビシッ!バシッ!」
「バッキューン!」「ドッカーン!」なぁんて口で擬音を出し
ながら
野山を駆け回ってたなぁ。

こうやって振り返ってみるとテレビっ子だったんだねぇ。

 小学校3~4年の頃、犬を飼っていた。名前はポチ。
ありふれた名前だけれど大好きだった。貰ったのか捨て犬だった
のかは記憶に無いのだけれど、俺の言うことはよく聞いたし
もの凄くなついていたなぁ。
愛犬ポチ
親父は飼うのが反対だったのだけれど一生懸命世話をするという
条件で許可がおり犬小屋も親父が造ってくれたのは憶えている。
だから学校から返ったら毎日ポチと散歩。
食事を与えるのも俺の仕事だった。

だけれど、日が経つにつれ友達と遊びたいばかりにポチの世話
が疎かになってしまい親父に叱られることが多くなった。
今で言えば「クレヨンしんちゃん」みたいなものだね。
俺が相手をしなくなっていったためか、ポチは縁の下、それも
家の土台の周りばかり掘るようになってしまった。
あまりにも酷いものだから親父は太激怒!!
その結末は、ポチとの別れへとつながってしまった。
親父は、どうしてもポチを飼うことを許さないと言い、捨てる
と言い出したのである。

そして、ポチとのお別れの日・・・。
俺の生まれ育った町には当時、公害ワースト10に入る自然の
入江にできた工業港があるのだが、そこに係留されている艀に
放置することとなったのである。今じゃペット虐待ってことで
大騒ぎだろうね。
親父は泣きじゃくる俺を無視して、段ボール箱に入れたポチを
艀に飛び乗り置いてきた。ポチは置かれてすぐに段ボールから
飛び出し俺を見つめていたが、艀が岸壁から離れ過ぎていて
ジャンプすることができない。ポチに振り向く俺を親父は強引
に腕を引き家へと帰っていった。

自分がきちんと世話をしていれば、こんなことにはならなかっ
たわけだけれどね。

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2007/07/08

検証・・・My Life-0008

小学校低学年頃-5  納豆・・・余談」

 そうそう、納豆についてもう少し。

 納豆は俺が物心ついてから、ずーと食べて
いるから、それなりの拘りがある。
大豆が国産か輸入かなんてことはあまり気にしては
いないけど、
「見た目」「粒の大きさ」「食感」
「粘り」
なんかは結構気にしている。

「見た目」は色。
茶色い粒に納豆菌がついて、白~く覆っていて粒の
茶色があまり見えない位のが良い。

「粒の大きさ」は程良い大きさ。
程良いっていうのは、長い方が7mm位、直径が6mm
位ってとこかな。

「食感」は食べてみないと分からないけど、
「見た目」が良いものは食感も悪くはない。
「モソ」っていうのはダメさ。「クニュ」ってぇ
のもいただけないねぇ。
表現が難しいんだけど、心地よい歯ごたえの
あるのが良い納豆なのだ。・・・俺の好みだね。

「粘り」は「見た目」が良いものは、
一生懸命クリクリすると、良い粘りがでる。
以前に、ある食文化研究家が「時計回りに30回、
反時計回りに20回」が良い粘りを出してくれると
言っていたんだけど、俺もそう思う。
試してみて!

クリクリして、良い粘りが出たところへタレを
かけて7~8回ほど軽~くかき混ぜたら完成!

良い感じに出来上がった時はヨダレがでるよ。
そうそう、俺はここ20年近くカラシは入れな
いね。これも拘りだね。

長ネギを刻んだのを入れたのも美味しい。
だけど、ネギはタレを入れる前に入れること。
長ネギはさ、納豆の粘りを殺します。
そうそう、生卵を入れるのもタレの前。

もう一つ!

 挽き割り納豆ってのが売られてるけど
普通の納豆をまな板の上で叩いた方が良い。
勿論、良い条件の納豆をね。
美味しい挽き割り納豆も探せばあるだろうけど、
スーパーなどで買ってきたものには「当たり!」
ってのがなかなかないんだなぁ。
どっちかっていうと「モソモソ」した感じのもの
が多く食感が良くない。
味噌汁に入れようものなら溶けてしまいそうな
感じ。これがいい人もいるか・・・。

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2007/06/29

検証・・・My Life-0007

「小学校低学年頃-4  毎朝、納豆!」  

 記憶の中にある朝の食事は納豆と漬け物とご飯だけ。
たまぁに目刺しもあったのかなぁ・・・。
納豆と漬け物が主だったことは鮮明に覚えている。
俺が小学生の頃、一般家庭では多少の差はあっても
どこの家庭も似たり寄ったりの食卓で、特に俺んちが
貧素ということではなかったと思う。
もっと言うと、ご飯と漬け物だけという我が家よりも
質素な家庭も少なくなかったと思うな。

 我が家では、ほぼ毎日納豆が出ていた。
時折、生卵が出ることがあったけど、卵が出たときは
俺も俺の妹たちも大喜び!
でも、1人1個ではなく兄妹3人で2個、親子5人で
3個か4個だったと思う。
今でこそ、卵は10個パックで100円程度でしょ?
1個あたり10円。「お一人様1パック限り!」なん
て時は10円以下でしょ?
俺が小学生の頃(1960年代(昭和30年代))も1個
10円~15円くらいだったけど、当時の賃金水準
から見たら高価なものだったねぇ。卵って。

納豆も1人1パックではなかったけど、1パックは
子供2人には十分な量があった。
で、値段は1パック15円くらい。
納豆は家族5人で2パックだったと思う。
勿論、皆がそれぞれた~っぷりかけて食べられる量
ではなかったけどね。

その食卓に月に数回出る生卵は本当に嬉しかったなぁ。
まずは、絶対卵かけご飯!これが一番だった。
家族5人で3個~4個だから納豆と同じでた~っぷり
かけられた訳ではないけど、でも、その不足分は
納豆が補ってくれた。だから、納豆も食べられて
卵もあるんだから、何となく朝から贅沢しているなって
当時は感じてたね。

 納豆と卵と言えば・・・。
当時の納豆は今のようなタレは付いてなくて、カラシ
も付いてなかった。薄皮の中に納豆だけ。
これを丼に2パック入れよくかき混ぜ、醤油をかける。
これだけだった。

で、スペシャル!
それは、納豆をよ~くかき混ぜ、そこに生卵を入れる。
おっと、その前に塩!これは醤油の代わり。
塩を入れてかき混ぜると箸が折れるほど糸立ちが良く
なる。そこへ生卵を落とし、さらにかき混ぜる。
この「納豆&卵」は卵かけご飯の次に好きっだったな。
何で、醤油ではなく塩かというと、納豆の糸立ちが違
うのです。俺は納豆というのはネバ~とした糸がない
のは良い納豆とは思ってない。で、この糸立ちと
生卵は相性が悪い。そう、糸切れするのです。
それで、塩を入れるんです。そうすると、醤油より
糸立ちがするんで、生卵を入れても糸切れがあまり
しないという訳。順番は納豆クリクリ → 塩を入れ
さらにクリクリ → そして卵を入れ軽くクリクリ。
この生卵と塩を入れる順番を間違えると駄目!

至極のスペシャルモーニング!


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2007/06/17

検証・・・My Life-0006

「小学校低学年頃-3  新しい家での生活」

 新しい家に引っ越してからの生活がどんなんだった
かも殆ど憶えてない。

断片的には・・・。
食卓は洋式。それまでは、まぁるい「ちゃぶ台」に
家族5人だったんだけど、テーブルとイスの生活に
変わったね。
ご飯の内容は和食で質素。これは、ちゃぶ台の時と
変わりはなかったけどね。

食事中はテレビを消し無言。もくもくと食べるのが
ルールだったな。
食べる時間は10分くらいかなぁ。あまり時間がかか
っていると親父が「いつまでかかって飯喰ってんだ!」
と一括。お喋りなんかして食べてたものなら
「喋ってないでサッサと喰え!」だよ。
食事は楽しく、美味しくって思うでしょ?

親父は3交代勤務だったので、食卓に親父がいない
時もあった。で、その時は兄妹みんな生き生きしてた。
で、お喋りしまくり!。
けど、あまり調子にのって食事が進まないと
お袋が「早く食べなさい!父さんに言うよ!」って
怒られたけど、結構無視していた。

当時の食事は本当に質素だったな。
朝は、ほぼ毎日納豆と漬け物。
夕食は魚系が一品ときんぴらとかの根菜類と漬け物。
最大三品だねぇ。
味噌汁は滅多に出なくって、安い煎茶か番茶かな。
これは後から知ったんだけど、親父が味噌汁が
好きじゃなかったんだと。

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2007/05/27

検証・・・My Life-0005

「小学校低学年頃-2  リヤカーでの引っ越し」
   
 小2の夏に戸建ての家が完成したのでT小学校から
C小学校へ転校した。

 引っ越し荷物は全てリヤカーで運んだ記憶があるね。
車なんて贅沢品だったもんなぁ。
リヤカーで何往復したか、俺がどれほど手伝ったのかなんて
全然覚えてない。
ただ、随分歩いたのだけは憶えてる。
大人の足で普通に歩いたら15分位の距離だったと思う。

普通に歩いて15分なんだから、リヤカーを引いたり押したり
だと30分はかかったんじゃないかなぁ。
挙げ句に、新居は高台にあり、そこへは急な坂道と階段を
登らなくてはならなかった。
だから、坂道の上り口にリヤカーを止めて、そこからは
手で運んだ。大変だったはずだけど憶えてないな。
(リヤカーを止めたところから家までのイメージはこんな感じかなぁ。)
[新しい家への引越]
最近、お袋から聞いた話だと、家が完成する以前から
リヤカーだけじゃなく手に持ったり背負ったりして
少しずつ何日もかかって運んだんだと。ひぇ~っ!

 新居は、6畳の板の間、8畳の和室、3畳の子供部屋に
4.5畳ほどの台所である。決して広くはなかった。
3畳の子供部屋には親父の手作りの3段ベットがあり、
板を渡しただけの簡単な勉強机があった。
この部屋は俺と俺の妹2人で使っていた。
ベットは俺が一番上を使っていた。
机は、板を渡しただけだから、引き出しなんてない!
机の下においた段ボール箱が引き出しだったはず・・・。
兄妹喧嘩はほぼ毎日していたなぁ。
しかし、喧嘩の度に叱られたのは長男である俺。
何で!っていつも思ってたなぁ。


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2007/03/11

検証・・・My Life-0004

「小学校低学年頃-1  初恋・担任・転校」

    親指の傷跡とか、初恋がひょっとして保育園の
   保育士だったかも、ということも忘れた頃にsyou1.jpg俺は
   小学校に入学した。
   入学記念に写真屋でポーズを
   取って撮影をしたんだけど、
 この証拠写真があるから分か
   るものの、誰と、どうやって
 写真屋へ行ったのかなんて
 全然憶えてない。
   ・・・この写真。
   


 いや、この撮影中に俺はお漏らしをしたらしいんだ。
   「憶えてるわけないべさ!」。
   単に、小便を我慢していたのか
   極度の緊張によるものなのか
全く憶えてない。情けなっ!
 
 おぉ! そう言えば従兄弟と雪ん中で相撲を取った
 ことがあった! でも記憶には無い・・・。
 でも、これが証拠だ!
 従兄弟と相撲
従兄弟と相撲 あっ!負けた

 小2の夏休み前までは室蘭市のT小学校に通ってた。
   家からは30分はかかったと思う。
   この小学校は高台にあり、急な階段を上らなくては
   着かない。
   大人になってから、改めて見たんだけど、よく通った
   もんだと感心するね。ホントに急な階段だった。

「初恋」
 本当の初恋は多分保育士なんだろうけど、記憶に
   ないことだから、唯一記憶にある小学校での初恋を
   思い出してみる。
    名前はM.I。
   まん丸な顔をしていて、とても可愛いと思ってた。
   席が隣だったからという単純なことが切っ掛けかな?
   俺は彼女のことをすっかり好きになり、ほとんど毎日
   一緒に登校していたのだと思う。
   学校へ行く道の途中。ちょっと迂回していったような
   記憶もあるけど、それはM.Iを迎えに行ためだった
 んじゃないかなぁ。で、お手々繋いで仲良く学校へ
 行ったんでしょ。きっと。
   だけど、お手々繋いで何を話し、何をしたかなんて
いうのは全然憶えてない。
   「う゛~ん。思い出せないしょ!」

「担任の先生」
    担任はT.M先生。
   とても良くしてもらった記憶が薄っすら残っている。
   授業での先生がどうだったか、何を良くしてもらった
   かという具体的なことは何も憶えていない。
   だけど、声は憶えている。特別珍しい声というわけ
   じゃない。でも、物真似ができるなら喋ることが
 できそうなくらい憶えているな。
 卒業アルバムを見る度、先生の笑顔が眩しい・・・。

「転校」
    親父は土地を購入し、山を切り開いて同僚達と
   一戸建ての家を建てた。
   そんな訳で、小2の一学期の終了と共に転校する
 こととなった。T小学校とお別れ。悲しい・・・。
   先生や他の友達との別れが悲しかった?
   いや違う。悲しかったのは初恋のM.Iとの
 別れだった。これは憶えている!
   実は「中学校になれば逢える。それまで待とう」
   とこの時心に決めていた。これも憶えている。



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2007/03/10

検証・・・My Life-0003

「0歳~5歳あたり-3」

 処置室のベットに俺は横たわり親指の手術受けている。
「うっ!痛いっしょ!」ってうめき声を上げたのが何となく
記憶にある。
痛い筈だよ。麻酔をしていなかったそうだから。
普通なら涙ものだが、泣きもしなかったらしい。
悪いことをしたという罪悪感が涙腺を閉じたのだな。

 手術が終わった。5針ほど縫ったようだ。

親父は俺には何も言わずお袋を叱ったらしい。
「ゴメン。母さん!」って俺が言ったかどうかは記憶
には無い。そして、帰宅してからのことも憶えていない。
      5_s_5 
この写真は今も残るキズ跡。
このキズはぶつけたりすると今でも痺れる。
ぶつけて痛みを感じるたびに薄っら過去の記憶を思い
起こさせてくれる。

 この頃から小学校へ上がるまでのことで憶えている
ことは殆ど無いなぁ。
が、薄っら思い出せるのはもうひとつある。

その記憶は、頭の中に相当濃い靄がかかっているから
よくは分からないんだけど、保育園での生活が楽しく、
それと、当時の先生をとても気に入っていってた筈
だということだ。
俺の初恋は小学校1年と今でも思っているんだけど
ひょっとすると、保育園の先生が初恋の人なのかも
知れないと思うことがある。

 俺の記憶。この5才頃までの成長期の記憶が
この程度なのかと思うと少し寂しいなぁ・・・。
いや、脳の奥底にはもっともっと記憶が残っている
筈なのだけど、脳細胞が・・・。
シナプスが活動してくれないから仕方ないっしょ!

Cameback! My Memory! だ。


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2007/03/01

検証・・・My Life-0002

「0歳~5歳あたり-2」

 溢れ出る血液を気にしながらも、しっかりと握っていた
欲しかった物・・・。それは「ナイフ」。
何が気に入っていたのかは定かではないけど、それは、
Photo_2 こんな感じのナイフだったらしい。
(画像勝手に使ってごめんなさい)
この画像は、あくまで形のイメージ
でありデザインは全く違う。
柄の部分には確か「魚」の図柄が
ある爪切り程の大きさだったとお
袋が言っていた。
このナイフ、刃を出すには5歳ほどの幼児ではそう簡単に
できる訳がないもの。
それを力を振り絞り開こうと「ギューッ」とやったものだから、
力尽きて閉じてしまって刃と鞘の間に挟まれたのだと思う。
それはそれは痛かった筈だ。でも、そのシーンは全く
記憶には残っていない。

お袋が家に入って来て、そして俺を見つけた。
「何やってんのさ!?」と私に声をかけるや否や、
お袋もビックリ!
慌てながらも溢れ出る私の親指の血液を
押さえようと包帯を探し出し、私の指に巻いた。
グルグル巻きだ。俺の指の太さの2~3倍に近い
ほど巻かさっていたのを何となく憶えている。
お袋は俺の親指に包帯をグルグルと巻きながら、
何を考えていたんだろう。
俺を「病院に連れて行かなくては」と、当然考えた
んだと思うが、もう一つ、親父への説明、
いや言い訳もお袋は考えなくてはならなかった。

 今、俺は病院のベットの上にいるようだ。
お袋と親父の顔がぼやーっと見えた。
医者が俺の手を弄っている。
 

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検証・・・My Life-0001

 自分ももういい歳だなぁ・・・。
かなり前から自分自身を振り返ることで、残された
人生を悔いなく過ごしたいとつくづく思う。
俺くらいの年になると、大概の人は一度はこう考え
るよね?

「0歳~5歳あたり-1」


・・・昭和のある年の8月。
父24歳、母21歳だった時、私はこの世に産声をあげた。


生まれてから3~4年の記憶ってぇのは普通の人は無い。
いや、ある人もいるだろうが、俺には記憶の断片も無い。
ん?一つだけある!
[3~4才頃] 
玄関の前で帽子を頭(かぶり)。
手に玩具のラッパを持った写真がある!これは何となく
憶えているぞ。
いや、それはこの写真があり、これを見たからそう思って
いるに過ぎぬ錯覚なのかも知れない。


 俺自身の記憶の中に、そこそこ鮮明に残っているのは、
4~5歳の頃に負った右親指のキズ。
50年近く経つ今でもこのキズは疼く。


お袋がちょっと出て行った隙に、茶箪笥の引き出しを
一段・・・。そしてもう一段と引き出し、それを重ね茶箪笥
の上にある筈の「触りたい」、いや「欲しい」ものをGet!。
「クレヨンしんちゃん」か?お前は・・・。
「あった!」。それをそっと手に取り「ニカッ!」とした
かどうかは今の俺の記憶は無い。
会いたかった。いや欲しかった物を手にしたんだから
相当嬉しかった筈だ。どんな顔をしていたのかなぁ。

辺りを見渡し、お袋が未だ戻ってこないのを確認し、
それを「ギューッ」と力を振り絞りそれを開いた。
そして、今度は閉じる・・・。「バチッ!」と音がした。
いや、これは擬音で実際に音はしない。しない筈だ。

何か赤い物が「ジワーッ」と右手親指から出てきた。
「ぎゃ~っ、血だ!」。ジワーッと出ていた血が今度は
「ドクン、ドクン」と音を発てるように溢れ出る。
「どうしよう・・・」。そりゃパニックっただろう。
「見つかったらマズイ!」。とにかく隠れなくては!
・・・「あそこに隠れよう!」。
そこは机?の下だったと思う。
溢れ出る血を押さえながらその下へ潜り込んだ。
 

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