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2007年10月に作成された記事

2007/10/14

パソコンと私-5


【EPOACEとのお別れ?】


   このカテゴリーも久々の更新である。
中途半端じゃぁ何だから続きを書きましょ。

 当時EPOACEを駆使して作ったのは部品の受注や売上処理と
伝票発行。それに在庫管理なんかも作ったね。
あぁ、あと歩留まりのいい板取や重量計算とかもね。データ
分析も当然行いました。

しかし、作成したプログラムがやっと起動に乗ったなぁって
頃に転勤。販売部隊へである。
そして営業だって言うからプログラムなんていじってられな
いっ!淋しい・・・。が、である。サッパリ営業に出ないの
であった。どういうこと?
先輩に付いて2~3度はお客さんとこへ行ったかな。
あと、たまたま電話に出たがために一人で営業にも行った。
うん確かに行きましたなぁ。だけれど、これだけである。

そうこうしている内に営業から外された。いや成績が悪かっ
たわけでも営業に向いてなかったわけでも無い!
言い訳じゃぁないよ。
あまり、営業に出ることも無く暇だったんでちょいと営業
実績の分析なんぞをEPOACEでやってた訳。
そしたら、役員が「君は工場でプログラム作ってたんか?凄
いな。よっしゃ、お前にはその方が向いとるがな。社長に
話したる」だってさ。
んで3ヶ月位経ってから新しいセクションが出来た。
そして転属。企画管理ってセクションだったかな?
部長、課長がそれぞれ一人。それと女子が一人。そして私。
仕事は販社内のEPOACEで処理されたデータを使っての分析。
勿論、プログラムの調子が悪ければサポートや修正も
したね。
分析だけではなく、販社の予算管理
もやりました。
それと、10数拠点ある支店や営業所から来た予算案を
まとめたりとかもしましたね。
1年半位はEPOACEにどっぷり浸かっちゃいましたね

 丁度そのころEPSONのPC-286Vが工場本体より送られて
きてね。ソフトも一緒にね。
ワープロは一太郎Ver.3.0、表計算はLotus1-2-3のR2.?だっ
たかな。勿論、システムもデータもフロッピーディスク
ですよ。「カシャカシャ」なんて音を立てながらプログラ
ムを読み、データを書き込む。う~ん素晴らしい!
EPOACEである程度集約したデータをプリントアウトして、
それを1-2-3に入力する。グラフも作る。
だけれど、この後が大変。
何が大変かというと、今のWindowsの世界のように文書は
ワード、データはEXCELで作って、それを相互に貼り付け
るなんてことが出来なかったんですね。この頃は。
資料づくりは、こんな感じ
説明文は一太郎で作成するのだけれど、グラフを入れる枠
を予め文書内に作っておく。1-2-3で作ったグラフをプリント
アウトする。で、ワープロ文書の枠に合うようにハサミで
切り貼り!です。数字が間違ってたりしたらデータを修正
して再度プリントアウト。勿論ワープロ文書もね。
これはトホホですよ。信じられますぅ?
信じられないと思うけれど、これ現実だったね。
切り貼りの糊もヤマト糊じゃぁダメ。乾くとシワになるか
らね。プリットですね糊は。完成したら、これを原紙とし
て必要枚数をコピーしてたね。ホントに今では考えられ
ないほど神経と労力使ったね。

 資料作りも大変だったけれど、ほら、プログラムも
データもフロッピーでしょ。やっぱり遅い・・・。

でも、工場からハードディスクが来たんです。
CaravelleのSCSI-20Mbyte。
20Gbyteじゃぁないですよ。20メガバイトっす。
当時は1M1万円って時代ですから20Mbyteだと20万円
程度でしたね。高っ!

ハードディスクを使い始めて暫くしたらEPOACEも
DOS版が出てきました。なので9450にインストール
されていたプログラム一部をコンバージョンして
PC-286V+HDDで使ったり、新規の分析用プログラム
はDOS版で作ったりもしてました。

結局、暫くはEPOACEでお仕事してました。

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検証・・・My Life-0009

「小学校高学年頃-1  テレビ そして ポチ」

 ブログを継続するのは大変だなぁ。
納豆の話で盛り上がったのに、もう2ヶ月も間を空けてしまった。

 戦後20年近く経った小学校高学年辺りになると貧富の差も
かなり縮まった感じで、接ぎ当ての服を着ている子供はかなり
減っていたね。
テレビの普及率も50%位だったんじゃないかなぁ。
我が家は裕福ではなかったけれどテレビは6才頃にあったね。
勿論、白黒だよ。足が4本、緞帳がついていて、うさぎ型の
室内アンテナだった。

相撲なんかは午後3時頃からやってたね。
放映局が幾つあったかは憶えてないけれど低学年のころは
「白馬童子」を見てたような記憶があるね。
「♪白馬童子がやってきた。さぁ大変だ大変だ♪」だったかな?

小学校の高学年頃から「鉄腕アトム」が始まった。当然白黒。
子供達皆がテレビにかじりついたね。
コマーシャルは・・・
「♪
マーブル、マーブル、マーブル、マーブル、マーブルチョコレート♪」
の明治製菓。売れてたね。チョコレートよりもおまけのシール!
集めたね。貼ったねランドセルやら色んなとこに。

鉄腕アトムの前は
「隠密剣士」「恐怖のミイラ」かな。
恐怖のミイラはおっかなかったね。放映後のトイレはなかなか
行けなかったし寝床についても天井のベニヤの節を見てると怖い
ものに見えて寝るに寝られなくって大変だったなぁ。

そうだ!
「少年ジェット」なんてのもありました。
「♪ 黄色いマフラーなびかせて~♪」なんて曲で、主人公は
スクーターに乗っててシェパード犬が一緒に走ってたなぁ。
あぁ、
「まぼろし探偵」ってのもありました。「七色仮面」も。
随分見てたんだなぁ。でもストーリーは殆ど憶えてないねぇ。

おぉっ!
「忍者部隊月光」もありました。
この番組の影響は大きかったね。特に男子には。
「隠密剣士」では手裏剣やマキビシを使うシーンの影響で
缶詰缶を使って手裏剣作ったりしたけれど、忍者部隊月光の
影響で向かいの山に秘密小屋を作ったり、枝で刀を作り、割り箸
でゴム鉄砲を作ったりして
「ビシッ!バシッ!」
「バッキューン!」「ドッカーン!」なぁんて口で擬音を出し
ながら
野山を駆け回ってたなぁ。

こうやって振り返ってみるとテレビっ子だったんだねぇ。

 小学校3~4年の頃、犬を飼っていた。名前はポチ。
ありふれた名前だけれど大好きだった。貰ったのか捨て犬だった
のかは記憶に無いのだけれど、俺の言うことはよく聞いたし
もの凄くなついていたなぁ。
愛犬ポチ
親父は飼うのが反対だったのだけれど一生懸命世話をするという
条件で許可がおり犬小屋も親父が造ってくれたのは憶えている。
だから学校から返ったら毎日ポチと散歩。
食事を与えるのも俺の仕事だった。

だけれど、日が経つにつれ友達と遊びたいばかりにポチの世話
が疎かになってしまい親父に叱られることが多くなった。
今で言えば「クレヨンしんちゃん」みたいなものだね。
俺が相手をしなくなっていったためか、ポチは縁の下、それも
家の土台の周りばかり掘るようになってしまった。
あまりにも酷いものだから親父は太激怒!!
その結末は、ポチとの別れへとつながってしまった。
親父は、どうしてもポチを飼うことを許さないと言い、捨てる
と言い出したのである。

そして、ポチとのお別れの日・・・。
俺の生まれ育った町には当時、公害ワースト10に入る自然の
入江にできた工業港があるのだが、そこに係留されている艀に
放置することとなったのである。今じゃペット虐待ってことで
大騒ぎだろうね。
親父は泣きじゃくる俺を無視して、段ボール箱に入れたポチを
艀に飛び乗り置いてきた。ポチは置かれてすぐに段ボールから
飛び出し俺を見つめていたが、艀が岸壁から離れ過ぎていて
ジャンプすることができない。ポチに振り向く俺を親父は強引
に腕を引き家へと帰っていった。

自分がきちんと世話をしていれば、こんなことにはならなかっ
たわけだけれどね。

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